イル・ポスティーノ。ささやかな手紙の形をした映画である。イタリアのうら寂れた美しい島での物語。ちいさな物語。私は詩人になりたいというよりか、詩人のように言葉と戯れたいと願ってきた。詩人とは何たるかも知らず。しかしこの映画を見てわかったような気になった。詩人とは、パブロのような男よりむしろ、マリオを指すのだと。あの素朴な魂。飾り気のなく、まっすぐな手と、しどろもどろした唇と、剥き身の目よ。
詩は、人を救う詩は、芸術は、ああいった人のためにあるのだ。芸術をものにしようともくろむ金持ちではない。美しいものを手中に収めなければ気のすまない収集家でもない。朴訥と生きて、言葉を持たず、思想を知らず、それゆえに行き詰って、しかしどこまでも純朴な瞳で、世界を見つめて鬱屈と頬杖をつく、あまねく子供たち。マリオを想うとき、私は一人の男性ではなく、ひとりの子供を浮かべる。彼の無邪気な魂は、子供そのものだ。子供の魂が、寂しげな男の身体に閉じ込められて、どうすればよいかもわからずうろうろとして、恋をして、目を輝かせているのだ。
したたるばかりに美しいベアトリーチェ。店主の叔母は、彼女の美貌は玉の輿に値すると思っていたがために、マリオとの結婚を阻んでいたが、私には、マリオにどうしようもなく惹かれてしまうベアトリーチェの気持ちがよく分かる。たしかに、彼女にとことん贅沢をさせてやって、甘やかしてやる金持ちの男など腐るほどいたろう。島に観光や休養にやってきた金持ちの若者を誘惑すればよろしい。彼らは周囲にも自慢してまわれる美しい妻を喜んでいただいたはずだ。しかしそういった男たちのうちで、一体だれが、ベアトリーチェの咥えた玉を、それだけを、ノートに描いてみせただろうか。マリオの描いたあの円が、すべてを物語っている。マリオとベアトリーチェがどうしようもなく惹かれ合ってしまった理由を。
私はどちらかというと、パブロに近い人間のような気がしている。さながらマリオになりたいと願うパブロだ。パブロには器用さが垣間見える。マリオはそうではない。不器用な人間の一言ほど、重みのある言葉はない。島で最も美しいものを聞かれて、ベアトリーチェと答えた彼の、その一言の尊さよ。どんなに上手く紡がれた口説き文句よりも、正確に女の心を撃ち抜く誠実よ。
潮騒が、鐘が、通りすがりの声が、星空が、鼓動が、訴える。詩は書いた人間のものではない、必要な人間のものであると。世界のすべては何らかの隠喩であると。そうとも、詩人にとってときに、森羅万象は暗喩だ。暗喩でありながらただの現象であり、そのいずれにも美は宿る。 私はこの、すべての詩人たち、素朴な魂への贈り物のような映画を心から愛する。浜辺で拾ってどうしても捨てられぬ、ささやかな美しさをもつ貝殻の手触りのような。